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コラム 2025/07/24
「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府とは?古代外交と防衛の要衝を歩く
こんにちは。
 

本日、ご紹介するのは、古代日本の西の玄関口として、歴史の表舞台に幾度も登場する「大宰府(だざいふ)」。

その名は、現在の福岡県太宰府市にも受け継がれ、多くの歴史ファンや観光客を惹きつけています。

 

しかし「太宰府天満宮」や「梅ヶ枝餅」だけでは語りつくせない、大宰府本来の姿をご存知でしょうか?

今回は、大宰府の役割や歴史的意義に焦点を当て、古代の外交・防衛の中枢としての「遠の朝廷(とおのみかど)」の実像を探ります。

 


 

■ 「大宰府」とは何か?行政・軍事・外交の要所

 

大宰府とは、奈良時代から平安時代にかけて、九州地方の広域統治・防衛・外交を担った国家の出先機関です。

大宰府の長官「大宰帥(だざいのそち)」は、唐名で「都督」とも呼ばれ、その権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」と称されました。

 

行政面では、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅の9国と、壱岐・対馬・多禰の3島を統括。

人事や監査、司法も担い、九州全域に影響力を持っていました。

 


 

■ 軍事拠点としての大宰府

 

大宰府は国防の最前線としての役割も重要でした。

管轄下には、防人(さきもり)を統率する「防人司」や、軍船を管理する「主船司」が設置され、朝鮮半島や中国からの脅威に備えるための防衛機能を果たしていたのです。

 

また、西海道諸国の牧から軍馬を集め、機動力の高い軍備体制を整える権限も大宰府に集中していました。

ただの地方行政機関ではない、国家戦略上の要所だったことがうかがえます。

 


 

■ 外交の窓口としての大宰府と鴻臚館

 

古来より、北九州は中国大陸や朝鮮半島との交流拠点として機能してきました。

そのため、大宰府には海外からの使節を迎えるための「鴻臚館(こうろかん)」が那津(現在の博多湾)沿岸に設置されていました。

 

鴻臚館では、外交儀礼が執り行われ、国際的な接待や情報交換が行われていたとされます。

いわば、古代日本における国際会議の会場であり、港湾貿易の玄関口だったのです。

 


 

■ 大宰府という名称と歴史的表記

 

文献上では、「筑紫大宰」や「大宰府」といった名称が使われており、奈良時代の木簡や史料にも登場します。

現在では、行政機関を表す言葉としては「大宰府」、都市名や「太宰府天満宮」のような神社の名称には「太宰府」が使われており、使い分けがされています。

 

また、唐名「都督府」にちなんで、現在でも史跡としては「都府楼跡(とふろうあと)」の名が一般的です。

 


 

■ 見どころ:史跡「都府楼跡」へ

 

福岡県太宰府市には、かつての大宰府政庁があったとされる「都府楼跡」が残っています。

ここには、石碑や礎石、復元された遺構などがあり、古代の中枢機関の面影を今に伝えています。

 

春には梅が香るこの地で、国家の運命を背負った場所の空気をぜひ感じてみてください。

 


 

■ おまけ:菅原道真と太宰府

 

現在の太宰府というと、どうしても「学問の神様」菅原道真公を祀る太宰府天満宮が有名です。

道真公が左遷され、失意の中でこの地に赴任したことも、大宰府の地に一層の歴史的深みを与えています。

 

彼の死後、天変地異が相次いだことから、後に神として祀られるようになった――という逸話もまた、大宰府の歴史にドラマを添えています。

 


 

■ アクセスと観光情報

 

  • 【都府楼跡】福岡県太宰府市観世音寺4丁目

  • 【最寄駅】JR鹿児島本線「都府楼南駅」から徒歩15分/西鉄「太宰府駅」からバスまたは徒歩圏

  • 【入場料】無料

  • 【所要時間】30分〜1時間程度

  • 【周辺】太宰府政庁跡、観世音寺、太宰府天満宮、九州国立博物館など

 


 

■ まとめ

 

今も観光地として賑わう「太宰府」ですが、かつては国家の防衛と外交を担った最前線だったのです。

歴史を知ってから訪れると、太宰府の風景や石碑、神社のすべてが、より深く、より面白く見えてくるはずです。

 

ぜひ一度、「遠の朝廷」としての太宰府の真の姿にふれてみてください。

きっと新たな福岡の魅力に出会えることでしょう。

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